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このエッセイは『ばんぶう』(日本医療企画)に掲載されたものです。
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  安楽死(1996)
 

安楽死。最近、マスコミをにぎ合せている話題だ。論調は大きく分けて二つになる。ひとつは医は仁術論の擁護派、もうひとつは法律から見た否定派である。

しかし、ここで京都の病院の問題や東海大でのケースを安易にコメントするのは差し控えなければならない。そもそも「死」と言う定義が曖昧だから。この問題は原点から考え始めなければならない。

科学としての医学の進歩は、死の概念を変えていった。その昔、死とは息を引き取ることであった。つまり、心臓の動きを正確に知るすべもなかった時代は、「自発呼吸の停止」を持って死としていたわけである。さらに西洋医学の進歩とともに死の定義は「心臓死」へと移り、そして現在では「脳死」に関して討議されている。

一方、哲学的、宗教的にも死と言うものは論議されてきた。つまり、輪ね転生とか死後の世界とか証明のしようのないところでの議論である。余談ではあるが、古代キリスト教においては輪ね転生は認められていた。それが、紀元500年代の宗教会議により信者の統制の目的で輪ね転生を否定、教儀を徹底するために天国と地獄と言う概念を植え付けたそうだ。

どうやら死というものは科学的にも哲学的、宗教的にも時代背景が大きく影響しているようだ。

もっと原点に戻ろう。1950年代に北イラク山中シャニダールにおいて重大な発掘がなされた。数万年前のネアンデルタール人の遺跡の発掘である。ここでの重大な発見とは、ひとつには埋葬されていたということ、もうひとつはその周りにおびただしい量の花粉が出てきたことである。死者を悼み、美しい花飾りをそえて埋葬する儀礼の最初の発見であるが、これこそ我々が生物としてのヒトから人間へと変った大変換点であるといえる。

動物は死というものを認識をしない。彼らにとって死体とはただの物体にしかすぎない。死を認識することは、見えない何かを考えることであり、そこから宗教、哲学、科学などが誕生した。今まで元気に動き回っていた仲間がある瞬間を経てただの物体となり、腐敗してゆく。仲間は何処へいったのだろうか、そして、同じ運命が自分にも訪れる事を予測する。一体自分は何処へいくのだろう。死を意識することは生を意識することにつながる。
人生の有限性を認識することが「今、ここに生きている」証明となる。

6万年前、ネアンデルタール人にとって花を愛する気持ちと死を認識する理性とは調和を保っていた。理性は科学と共に進化した、一方、花を愛する気持ちはどうだろう。

どうやら、安楽死を論ずる為には「いかに生きるか」ということを論ずる必要があるらしい。しかもそれは、科学的、哲学的であると同時に花を愛する優しさを合せもつ心で行わなければならない。

「いかに読者の興味を引くか」を念頭においた「安楽死論」は多々見られるが、「いかに生きるか」を念頭においた「安楽死論」を未だに読んだことはない。

遠くの親戚ほど文句をいう。らしい。

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